山上6℃、陽射しがぬくい。
 本日長文。
 藤吉が私立の教育機関に触れたのは、幼稚園(いま思い返すと園長先生は天台宗のお坊さんだった。「いっしんちょーらい、じっぽーほーかい。みほとけさまをおがみます」って、今も漢字はあてられないが覚えてるぞ)を除くと小学校4年の時に始めた珠算塾が初めてで、その後は高校を卒業して通った予備校が私立という以外、ずっと官立の学校に在籍していた。それでどうなのかというと、多分「均質な空間」とか「普遍的原理」とか「画一的な尺度」とか、そういったものに馴染むような感覚を、どちらかといえば身につけてきたと言えるような気がしているが、そういう感覚では感じ取れないものが、私立の教育機関にはあるのだということに、最近ようやく気づいてきた。学校は基本的に「誰にでも開かれて」いて、定員の関係でやむをえず選抜をする場合にも「公正なペーパー試験による点数評価」が基準になるというのが、いってみれば藤吉の「学校」観だったということになる。平凡な(あんまり上昇志向のない)サラリーマン家庭に育った子どもとしては穏当というしかない感覚だったと言えるが、私立の学校というのはそれだけでは通用しない部分を持つ(ようだ)。
 高野山大学真言宗僧侶の後継者養成を目的に開設され、今もそれを重要な目的として掲げている。僧侶集団というのは、ちょっと乱暴にいえば職能集団であり、その意味で「ギルド」と呼べるものだ。手許の『社会学事典』(弘文堂、1988年)で「ギルド」を調べるとこう説明してある。

ヨーロッパの中世都市において、おもに商工業者の仲間組合として存在した団体組織。はじめ商人が自らの商業上の利益を図るための商人ギルドとして発生した。やがて12世紀ごろからは手工業者も商人に対する従属から独立してそれぞれの同職ギルド(craft guild, Zunft)を結成し、自己の営業上の独占権を保持した。農民の村落共同体に照応する都市の商工業者の共同体。

 同じ職能の者が集まって、内部での結束と外部に対する自らの利益・決定権の確保を目的とするのがギルドだと見ておいていいだろう。ある仕事に就くためにはそのギルドに加わらなければならない。そのギルドに加わるためにはそのギルドにすでに加わっているメンバーのもとで一定期間、徒弟として修行を積まなければならない。積んだ上でギルドから承認を得たのちにやっとその一員としてめざす仕事を生業とすることができるようになる。ここで重要なのは、ギルドのメンバーを育てる(修行に就かせる)ことができるのは、すでにギルドのメンバーとなっている者だけだ、ということだ。僧侶後継者を養成するのが任務であれば、そのスタッフは僧職ギルドのメンバーでなければならない。ギルドのメンバーでもない者が、ギルドのメンバーを育てることはできない。こんなことがまかり通ればギルドの主権sovereigntyにかかわるだろう。…ところが、あまりこれに偏すると、「坊さんは坊さんで、勝手に後継者の養成をやっておればよい。それは、直接には社会に必要な人材の養成とは結びつかない。したがって公益に資する教育機関への公的資金の助成という事業の対象とはなり得ない」という理屈でもって私学助成を受けられなくなってしまう。
 次代のギルドのメンバーを育てるという中核部分を温存しつつ、いかに「公益に資する教育機関」という機能も果たしていくか、ここが私立の教育機関の、とりわけ宗教(というか教団)を基盤とした教育機関の腕の見せどころと言えるだろう。