しばし気分転換に西田幾多郎『善の研究』(岩波文庫)を(再)読み中。学生の頃読んだときには「ほほー、そうかー」みたいな(主観的には)充実した読後感があったのだが、今回はなぜかピンとこない。が、たとえば次のようなくだり、

…人間が共同生活を営む処には必ず各人の意識を統一する社会的意識なる者がある。言語、風俗、習慣、制度、法律、宗教、文学等は凡てこの社会的意識の現象である。我々の個人的意識はこの中に発生しこの中に養成せられた者で、この大なる意識を構成する一細胞にすぎない。知識も道徳も趣味も凡て社会的意義をもっている。最も普遍的なる学問すらも社会的因襲を脱しない(今日各国に学風というものがあるのはこれが為である)。いわゆる個人の特性という者はこの社会的意識なる基礎の上に現われ来る多様なる変化にすぎない、いかに奇抜なる天才でもこの社会的意識の範囲を脱することはできぬ。…

を読むと、これって(ひとまずこの部分は)社会学だなあという気も起こる(だからどうだというワケではないが)。とはいえやはり全体としてはなんだか印象が残らない(まだ途中だけど)。ふむふむと読めていると突然ポコッとよくわからない部分が割り込むからかも知れないという気がしてきた。…自分訳してみたらそこそこ理解が進むかも。