昨日のワークショップのつづき。人権や差別について学ぶことを普通の「お勉強」と一緒のように考えるとなかなかツライものがあるという話題から、博物館関係者氏がこんな話を披露してくださった。館には全国各地から修学旅行や社会見学の一環として学校からの団体訪問があり、そこで感想を書いてもらったときによく見られるのが「わたしも困った人がいたら助けてあげようと思いました」というもの。これはこれでひとつの「成果」とも言いうるが、そうではなく、人権を考える際には他人の人権と共に自分の人権を意識し、大事にすることが重要で、そこに響く展示を工夫することはなかなかむずかしいとのこと。誰であれ、困った人がいたら助けてあげるというのはもちろん大事だが、それと共に、あるいはそれ以前に、自分が困ったらまわりに助けを求めてもいいということが伝わらないといけない、伝わるようにしたいというお話で、これは、人権や差別の「お勉強」化をどう回避するかという話にもつながってきそう。これまたしばらく転がしてみる。…多くの人間に「自分はまわりに助けを求めるに値しない人間だ」と思い込ませること、これが戦後のある時期からの教育の成果であるとしたら、それは例の雨宮処凛さんのお話とこれまたつながる部分を持っているかも知れない。
…てなことを考えていたら思い出したことがひとつ。たしか高校の時に読んだ田中克彦『ことばと国家』(岩波新書)に、例の「最後の授業」のエピソード…ここまできて違うかもと思い始めた。『言葉の自由をもとめて』(福武文庫)だったかもしれない(こっちを読んだのは大学に入ってから)。多分どちらかだったと思うが、学校の勉強には2種類あってというような話が書かれていた。理科とか算数とか、学校外の、つまりは家庭や近所の友だちづきあいのなかで勝手に蓄積された知識をベースとして、それを整理したり補強したりする=学校外の知識と地続きの=勉強がひとつ。まあこれが多数派。で、少数派が国語。要するに家庭や近所づきあいで使われているものを「文法的に間違い」とか「標準語でない」とか、そういった理由で置換する=学校外の知識をある程度否定して成り立つ=勉強であり、これは割合としては「少数派」かもしれないが、学校という場の特徴(先生がダメといったらダメ)を最もよく表しているという点で「主流派」と呼んでもいいような勉強(このへん読後の脚色が入っているかもしれない)。このことを思い出してからあらためて考えてみると、人権や差別について学ぶことを「お勉強」にならない方向にもっていけるようにしたいというのは、これを後者ではなく前者の方向で学べるようなものにしたいということだと読み替えてもいいかも知れないと思えてきた。これまたしばらく転がしてみる。
 ここしばらく、ホットメールを開くとお知らせがポップアップで出ていた(最近ちょっとおさまり中)。なんだか何かが新しくなるようだ。…この前つながらなかったのはこれだったか。

 ウィキリークスからだそうです。本音で語り合うって大事。原文(とされるもの)は→こちら
…コトは大学院のみにあらず。学部もまたしかり。以て他山の石とせよ。…はい、しますです。
…ちくちくやってればそれなりに縫い上がっていくもんです。
 そういうと、こんなんあるそうです。
 今日のAQI
 今日・明日のエアロゾル九州大学
 地には平和を。