山上15度、穏やかな晴れ。風ふくよき日、でござる。
 人づてにその存在を知った柴谷篤弘『われらが内なる隠蔽』を読んだ。知らなかったなあ、柴谷さんがこんな本を書いてらしたとは。組織記録の重要性を理解する組織のリーダーというのは貴重です。教えて下さった近江八幡のK氏に感謝。…実はK氏、この本に登場しておられます。
 4月のアーカイブズ学会大会(主に大学アーカイブズ関連の報告)でも昨日の国文研のワークショップでも思ったことだが、個人情報ではありながら、学術研究機関における人事記録の重要性を考えさせられた。研究、特に文系の研究は個人的な営みであることが多く、それがいわゆる「学問の自由」という考え方とも相まってスタッフの研究内容や方向性に関与することにはブレーキのかかることが一般的と考えられるが、アーカイブズやアカウンタビリティの方向から考えるとそう悠長なことも言っていられなくなる。
 その機関がどのような方向で研究を推進しようとするのか、これをステークホルダー(国立の機関であれば納税者、の代理人であるはずの(!)所管省庁)に証拠書類を挙げて説明しなければならない。その書類に研究計画書とか研究報告書のたぐいが含まれるのはもちろんだが、マンパワーの調達という側面で考えるなら人事という部分を抜きにすることはできない。われわれは今後こういう方面での研究を厚くする、そのためにこういう人材を調達するといったことが、アカウンタビリティの対象として挙げられるようになってくるだろうことは想像に難くない。機関とその機関を取り巻くステークホルダーとの間には、こういうかたちでの緊張関係も想定される。そしてこれが「学問の自由」という超一般的な理念とどのあたりでバランスするかについては十分に議論の余地があるはずだ。そもそも「学問の自由」それ自体は、人々の自由な思考・言論活動に対する国家権力の強権的な拘束に対抗するものだったと考えられ(ちゃんと裏とりしてないが)、ここで求められるアカウンタビリティとは少々次元を異にするのではないか、というのが最近の感触。ステークホルダーとしては常に「それを注力すべき主要な研究としてあなた方が位置づけるのは、それはあなた方の自由、そんなこと敢えて資金をつけて(人を雇って)までやってもらわなくてもよいと考えるのは私たちの自由」、こう宣言する権利を、ステークホルダーは常に担保していると考えておくべきだろう。
 その機関がどういう研究発展の方向を志し、そのためにどのような人材調達を進めてきたか、を示す記録が整理され関係者の閲覧に供されるようになれば、こういうことを具体的に考えることもできる。アーカイブズの公開には基本的に30年原則というのがある。これにならえば今の時点で1977年以前の記録は原則公開ということになるが、それをやっているところは皆無に近いだろう。個人情報保護の問題もあるし。研究者が「公人」であることにはどのような含意があるかが問題になってこよう(まず学生を呼べなきゃ話にならん、という現実的な問題はとりあえず置いておくとしても)。研究者と研究機関(大学を含む)の関係は今後この点からも「総ざらえ」が進められる可能性は十分にある。
 …前に読んだ『人の値段』を読んで初めて知ったのだが、1970年代後半まで大学院博士課程を持つ国立大学は、一部の例外を除き、旧帝大に限られていたんだそうだ。その頃から新制大学にも博士課程の設置を認めるようになり、それにあたって当該大学のスタッフが博士の指導に適格かどうかを文部省が審査するということが行なわれたという。この際の審査では審査基準が明示されることはなかったようだが、今後はそれぞれの機関がみずからにふさわしい(とみずから考える)基準を設置して自己点検するといったことも求められるようになるだろう。