アカウンタビリティという言葉を意識したのは、多分かれこれ20年ほど前に出たウォルフレン『人間を幸福にしない日本というシステム』を読んでからのことと思う。日本では説明責任、挙証説明責任と訳されるその言葉のもつ発想は、政府の活動情報(を知るためのツール)にも応用できそうだと考え、あれこれ調べるようになった。この言葉がアカウント(account=勘定、説明)からきていて会計報告とつながりを持ち、もともと企業の会計情報開示に関して企業とステークホルダーの関係を言う際に用いられるというあたりからの着想(というホドでもない)だった。
企業活動の透明性を保ち、開示される情報をもとに投資家は企業活動への支援を(出仕…もとい…出資というかたちで)したり、経営への意見を述べたりするという関係は、政府活動にも応用できそうという感触から調べ始めたのだった。…のだが、当の会計の世界におけるアカウンタビリティや透明性確保のための重要な一翼を担っている、いわゆる格付け企業(この前アメリカを格下げしたあそことか)がどのようなデータを集め、どのような方法でデータ処理をし、どのような基準で結果を評価して格付けを行なっているかということについては、あまり情報が開示されていないそうだ。これは最近知った(その後ちゃんとフォローの調べをしてないが)。
自分の手の内をできるだけさらさないで、相手の手の内を明かさせようとするのがゲームに勝つためのひとつの鉄則である。連中のやりそうなことだという意識は持っておいた方がいいのかも知れない。そしてまた、だからといってアカウンタビリティという発想自体が無効になるというわけでもない。粛々と調査研究を推進すべし、である。
…道楽で身上をつぶすというのも、まあ、それはそれでひとつの生き方ではある。
... "Run away from home," Harvey urged. "Get on the bus, go to the next biggest city--New York, San Francisco, Los Angeles, even Minneapolis, it doesn't matter. Just leave." / The young man started crying. He was confined to a wheelchair and couldn't get on any bus he said. That moment marked one of the only times Amador would ever see tears come to Harvey's eyes. Everything was so much more goddamn complex than he could say in his hope speech. (The Mayor of Castro Street, by Randy Shilts, p. 210)