ほひょひょひょー@tenki.jp。

 エボラ地道中BBC。このおねいさん、ずっと張りついてござるんかな。
 オマエは黙っとけ教化中@SCMP。…今の若いモンは的な。
 オマエは黙っとけ緊縮中沖縄タイムス
 1/12(月)社会学Ⅱテスト、1/13(火)日本語(再)テスト。
 サンフランシスコ訪問時に相手をしてくださったご学友がちょうど銃撃のあった場所から3ブロックのところでパリ滞在中だったそうだ。すでにFB上でアイコンを Je suis Charlie にしている人もいてござる。神さまはむずかしいなーというぬるいアタマでしか考えられないが、たとえばこういうマンガから考えるのはこんなこと。
 藤吉がここから読み取るのは「オマエのやってることはオマエの神さまをも銃撃することだよ」というメッセージ(これが正しいかどうかはわからない)。そう受けとるとその裏っかわには「連中のマンガはオマエの神さまを銃撃してはいないよ」というのが張りついてるんじゃないかと思える。…中略…で、「オマエの神さまだって言論(表現)の自由は保障してるんだよ」ってのが底の方から出てくるんじゃないか(うまくまとまらないから相当はしょっている)。
…たぶん表現の自由はどこまで保障されるべきかとか、表現(またはその内容)を理由にした私刑は認められるかとか、どうもそういう法的なことを自分が考えたいわけではないような気がしてきた。殺人はダメ、なぜなら私も殺されたくないから、くらいでお茶を濁しておいてよい(そしたら、自分が殺されなければ他人が殺されるのはいいのかと問われそうだが聞かなかったことにする)。
 被害を受けた側には「あんなヘイトスピーチやってんだからそのくらいの覚悟はあっただろう。やられても文句は言えない」みたいな感想も向けられている。イスラム教を揶揄するマンガ雑誌という図式にするとそうなりそうだが、雑誌自体はそれだけでもないようだ。表紙にも例えばこんな絵の使われたことがあるらしい(グーグルさんでcharlie hebdoを画像検索するといろいろ出てくる。なかなかエグいのもあるよ)。
 自分の関心が向いているのは「ヘタすると命を狙われるかも知れないとわかっていて、なんでこういうことをするんだろう」という点のようだ。で、それを考えることと、それをするのが、よいこと/悪いことか、合法/違法かを考えることとは、どうも自分の中で違っているような気がする。ごくごく安直に(←「素朴に」の意味)、わざわざ相手を怒らせてブン殴られるかも知れないようなことをなんで言うのかしら的な興味津々之介。FBアイコンを Je suis Charlie としている知り合いに脊髄反応的に賛同できないというのは、だから、「あんなことやってたんだから狙われてもしょうがない」と「表現内容を理由に表現者を殺傷するのはアウト」というのが藤吉のなかで未だ混沌とした未分化状態にあるということのひとつの現れであるかも知れない(ここに性表現と児童ポルノの話、それから表現が嗜好を操作する的な話を入れこむとますますややこしい=わたくし的には、ですが=)。そのあたりを掘り下げた番組(Freedom to Broadcast Hate)がちょいと前にBBCでもつくられている(長いよ。絵も部分的にコワイよ)。
 なんでそういう表現をするのか、理由如何では認めんでもない/許さないという判断を棚上げにして、どうしてこう人さまの神経を逆なでするようなことをするんだろうかというそのしょっぱなのところでは、たとえばこういう声明@WPに転びやすい自分がいることに気づく。要は「自業自得」的な即断を下しやすいところにいるなあと感じる。
 批判を浴びようが反発を招こうが言わなきゃいけないことは言う、というのはディベートなどをはじめとする言論(というか議論、討論)の世界ではごく普通のことで、そういう議論の場において、誰かの反感を買うようなことを言ったら即退場というようなことはできるだけ避けないといけない(ためにする中傷とか虚偽とかは横にして)。なんで人さまの神経を逆なでしてまでそんなこと言うんだろうという疑問へのひとつの回答はこれだろうと思う。この方WSJはその立場におられるのだとお見受けする(訳者を殺害犯はまだ逮捕されていない@ウィキ)。
 んが、今回の場合は単純に「言論の世界」の出来事とは言いにくい。言論の世界よりはもうちょっと広い「表現の世界」というものがあって、これが笑いを基本とする表現だ、というところに厄介さがあると感じる。でもって加えて、聖なるものをおちゃらかすのに性的なものを使っているというのがハードルを高くしている、と、理解しようとする藤吉の側には感じられる。なんせ「おまえのかーちゃんでーべそ!」で子ども時代を送る文化圏で呼吸していた人間にとって「母を犯す奴」が「自然」な罵倒語になるってのを理解するのは大人になっても随分と手間だったし、ひとくちに下ネタいうてもいろいろあるんだぞってのはダンデス先生のやたら長いタイトルのご本なんか(あと、その解説)で教えていただいたし、件の雑誌なんかはゼノフォビアホモフォビアだからヤバいんちゃうかと、すでに笑うという「自然」はどこかに吹っ飛んで、どう笑えばいいんだという頭でっかち的対応に陥らざるを得ない。こういうところがあるから、「表現を理由にした殺人に抗議する」であるはず(おそらく)の Je suis Charlie を「彼らの表現内容を支持する」に読み替える反応が脳内に起こるんじゃなかろうか。…後略
 表現への意欲が右顧左眄に基づく自己規制によって萎縮するときが表現の自由の危機だというのは正しい(適切な)見方と思う。で、自分たちが自己規制しているかどうか、表現への意欲を萎縮させていないか、というのを自己判断するのはなかなか難しいというのも正しい(適切な)見方と思う。このふたつをシャッフルすると「萎縮しないためには常にタブーに挑戦しつづけなければならない」というマクシムも出てくる。そのマクシムにのっとれば、たとえば「あえて人さまの神経を逆なでするような表現に果敢にチャレンジせよ」というような態度も出てくるんじゃないかと思う。どっちかいうと(人々の鬱屈を追い風にしつつ)こっちかなーとも思えるが、もうそれ以上のことはわからない(というか調べない)。
 たとえば藤吉は「弘法大師は今もあの場から私たちを見守ってくださっています、ということに、ここではなっています」というような表現をすることが時々(時と場所を考えつつ)あるが、結構はらはらである。その一方、高野山で10年以上もうろうろしていると「空海」と呼び捨て(!)にするのをためらわれるようなシチュエーションにいる自分を感じることがある。それまでは、「最澄比叡山延暦寺天台宗空海高野山金剛峯寺真言宗」という日本史用語集のキーワードセットのひとつに過ぎなかったのに。朱に交われば、ではなく、郷に入っては、の方だと考えておきたいが、まあ、しばしば感じる。実際に、たとえば(これは藤吉の時ではなかったが)職場の高野山大学公開講座をやったあとでアンケートをとると受講者から「先生が「空海」と呼び捨てにされるたびに心が痛みました」的な回答が出てくることも過去にはあったようだ(今はどうだかよくわからない)。
 そういうことがあるので、人さまの大事に思っているものを無闇に邪険にするものじゃないという発想が下界よりやや肥大しているのかも知れないとは思うが、まあ、異文化の尊重と表現の自由とのかねあいという問題は、老化と勉強ですっかり混濁しているアタマにはむずかしすぎるわ。
…こんなご託を並べている場合ではなかった。んのげげー。
 便利らしい漢字
 4mのスルメ!@産経ニュース。
 待ったなしを強調しすぎると行き当たりばったりになりがち、いうことになるか。にしても、強調「しすぎ」かどうかを吟味する基準はあった方がよさそう。
 へえ、福岡でこんなんやるんだ。
 気をつけましょう@経験者。
 なあおまえ、なんとかならんか、そのぐどん。
 Tous avec Jules #17@L'equipe.…こちら@Marussiaも。
 旅する劇団どくんご、あと始末中。おつかれさまでした!
 黄色い大地の博物誌ウェブサイト開設。いつか中国語バージョンも増設されますように。
 全記録蘋果日報。…タイムラインもよくできてます。いま見たら写真が軒並み消えとる。なんかあったんか。
 あれから10年後までの予想
 今日の燃料棒@TEPCO。…1188/1533 …まだ停まっとる。げ。ページが変わっとる。1353/1533(「使用済燃料の取り出しは2014年11月5日に終了」だそうだ)…げげ。またまたページが変わっとる(12/16)。なーんか、ブックマーク外ししてんじゃねーのかと疑いたくなる小市民。
 日本周辺の気流
 今日のAQI
 今日のガイガーマップ
 今日・明日のエアロゾル九州大学
 フィラデルフィア現在時刻@世界時計。
 地には平和を。
 科研費ロゴ@JSPS。