ぶいーん@tenki.jp。
他人を縛ることによって、あるいは縛った他人の数によって自分の安定性が増すというメカニズムについて。縛ってる範囲では介入的に甘くなるような。…見ようと思えばあちこちに見つかるかも知れないDV的要素。
ちなみに、きのう挙げた石原千秋『受験国語が君を救う!』については「中身が濁りすぎ」とするこんな評もある(ご本人=らしき方=のリアクションもある)。自分がすっきり読めた本を濁っていると評されるとちょいと戸惑うが、どのへんをそう感じたかについてあれこれお聞きできれば自分の読みとの違いが見えておもしろいかもしれない。言語(コミュニケーション)はゲームであるという態度へのスタンスに距離があるかもと思ったり。で、この評の途中にある「この本を読んで救われる14歳はどこにもどんなレベルにおいてもいないでしょう?!」にはちょっと考えさせられた。ホントにいないかな。14歳でこの本を読んで「救われた」と感じるのはたしかに多数派ではないかもしれない。が、「これが正しい」よりも「これが正しいと言わせたいんやろ」というのが受験国語、ひいては教室国語での正しいあり方かもしれないという指摘は、中学生のいくらかの部分に、そしてもうちょっと多め部分の高校生には届くような気もする。届く高校生が増える分、手後れモードになっちゃってる(こんな本を手に取ることはないだろうしそもそも本屋なんかに行かないし買ってせいぜいコンビニの雑誌とかだし、のような)高校生も増えているだろうということも、まあ言えるかもしれない。
4歳は措いとくとして、14歳、24歳、34歳、…と10歳刻みにして(5年刻みでもいいが)その年齢層における「どうせ自分なんか」と思う(ことが結構多い)人の割合を見ていったらどうなるだろうかな。将来の「国力」をはかる参考になったりしないかな。…案外64、74歳あたりは「自分もまだまだ!」なんて割合が多かったりするんだろうか。
ミハエル・シューマッハ氏のご無事を祈ります@BBC。
このことをやっているあいだわたしはそのことをやっていない。あなたはこのことをやっててそのことをやっていないといいにくるあなたは、あなたはこのことをやっててそのことをやっていないといっているあいだこのこともそのこともやっていない。
スウェーデンの文部省は1994年の「学習指導要領の概要」に学校の任務を「生徒に、将来を築くという困難な事業への楽観的な展望を与えること」と位置づけているそうだ。むー。
…そうか、40もないのか…。
…募集中だそうです。…いつの間にか取扱い停止になっている…7月中旬スタートで再開してます。
あれから10年後までの予想。
今日のAQI。
今日のガイガーマップ。
今日・明日のエアロゾル@九州大学。
地には平和を。
科研費ロゴ@JSPS。