山上8℃、雲の多いひんやりした晴れ。ようやく秋らしくなってきた。山内散策を楽しむ三々五々のみなさんも多し。今日は午後からダライラマウィークの仕事分担に関するスタッフ説明会。誰も倒れたり壊れたりすることなく無事終えられますように。…またホットメールが、というかMSNジャパンにつながらない。むー。
 せっかくなのでもうちょっと。以下、いずれもまた本山美彦『金融権力』(岩波新書)より。

過去の日本の金融行政は、銀行を顧客の業態ごとに細かく区分けしていた。例えば、鉄鋼や重機械部門などの基幹産業の多くは、顧客が専門家集団であるために、製品を高く売りつけることができない。したがって、儲からない。儲からないが、国民経済に厚みをもたせるためには、そうした産業の存在が不可欠である。そのため重要な基幹産業を育成すべく、日本では、長期資金供給に特化した長期信用金融機関が配置されていた。(p. 8)

ノーベル経済学賞」だけは、正確に言えば、ノーベル賞ではない。(p. 137)

 どんなスポーツ興行にもあることだと思うが、F1でもゲーム(レース)をよりおもしろくするという意図でもってルールの変更をするということがある。最近だとレース中にタイヤ交換は何回以上しないといけないとか、コース上のこの区間は特別な装置を使って追い抜きを試みてもいいとか。そうした変更によって当然のことながら、それ以前より(結果として)有利になるチームもあれば不利になるチームもある。で、そうしたルールづくりの恣意性をとらえて「所詮つくりごとにすぎない、つまらないものだ」というような言い方も可能だが、実際そうしたルール変更によってレースはおもしろくなる。おもしろくならない時もあるがそれならそれで、またルールの変更を試みればよいというのが基本的なスタンスなんだろう。
 ルールの変更というと、よりよい、さらには最高によい絶対のルールの実現をめざしてというような方向でものを考えてしまいがちだが(そうでもないかな)、基本はあーでもないこーでもないという試行錯誤、右往左往が延々と続くのだと思った方がいいのかも知れない(「終わりなき日常を生きろ」とはその謂であったか…)。
 ルールは少ない方がいいという言い方は規制は少ない方がいいという言い方につながるが、……中略……それがどんな意図でつくられたルールか、そのルールは当初の意図をちゃんと果たせているか、その意図は今も重視されるべき(少なくともルールを残しておくほどに)意義をもっているか、そうした丁寧な「仕分け」こそが必要な作業なように思える。ルールを守ることも大事だが、自分たちを快適にするルールの検討を持続できるような環境づくりも大事である。自分に恩恵をもたらさない自由を、単に自由は絶対的な価値であるというだけで望む人間がどれほどいるか、ちょっと考えてみてもいいかも知れない。(すぐにはつづかない)