山上23℃、ところどころ切れ目のあるくもり。暑い。午後の会議まで粛々とデスクワーク。
 雲の切れ間からのぞく空の青が深い。

 えー、ここ、なんでうまくいってないの? 説明見ながらちゃんとやったらこうなるハズないと思うけどなあ。あーでもー、ちゃんと読んでやったんですけどー。ほんま? ほんとにちゃんとやったの? はい、ちゃんとやりました。…で、ほらー、ここがちゃんとできてないじゃんよー、と具体的に指摘しようとすれば当人の作業をイチからたどらざるを得ず、さすがにそれは時間的にムリ。「ここができてないでしょ」と指摘される前に「あ、ここができてないわ」と気づける力は、取り組む作業のレベル如何に関わらず、というか、それぞれのレベルに応じたかたちで重要なはず。ではあるが、「ともだち」の「だち」のしんにょうの中が「幸」ではないということに気づくことが、もはや「幸」と思い込んでしまっている人にとって至難の業である(正解を見ながら自己採点してみても自分では気づけない)のと同様、「ちゃんとやった(はず)」という信念に抗し、敢えて自分のミスを見つけようという目をもつのは至難の業といわねばならない。「ちゃんとできてない現実」を前にして、なお「ちゃんとやった(ハズの)自分」を疑わないその信念の堅固さ恐るべし。「できてない自分にあぐらをかかない」というモラルをことここに及んで醸成することは、存外むずかしいことなのである。←こういうのを「できない自分にあぐらをかいている自分を追認する」というのである。ぷぷぷ。
 これ、稼働すれば随分と役に立つかもしれない。とはいえ、通信インフラがダメージを受けた状態でどれだけ安定稼働させられるかが課題になりそうだし、そうした非常時だけでなく、たしか通常の救急医療でも、どこかの地域の患者配分システムが十分に機能していないという報道を見たことがある。余力のある医療機関に適切に患者を配分するためには、そもそもどこに余力があるか適切な情報把握が必要であり、そうした情報は各機関がコンスタントかつ適切に自己申告するという作業があって初めて確保できる。が、多くの機関は医療作業そのものに手一杯で、自機関の余力を定期的にシステム入力するための余力自体がないという内容だった。―ベッドはいつもひとつふたつは空けておけ!―システムつくってデータ入らず、ではお話にならない。…日本の問題のひとつはそのへんにありそうな気がするなあ。あっぷあっぷまで頑張ら(せ)ないと気がすまない、とか。脱亜乳王…もとい。しかしなんちゅう変換なんじゃ、ATOK!…脱亜入欧のたたりかな。
 これ、見てみたい。これまで全天映像は日食など天体観測での利用がメインだったようだが、こういうかたちで防災教育などにも使えそう。一度見学の必要あり。
 前期にやってきた授業「デジタルアーカイブ」、昨日の授業時間中に提出が間に合わなかった組のいくつかから提出がありました。都合10本。同じ素材からそれぞれの編集で微妙な違いを楽しむということを目論んだもののホントに微妙にしか違わない場合もあり、ちょっと再考の余地あり。インタビューはうまくいったと思ったんだがなあ。また考えっぺ。
こちら
 要するに戦後の日本てのはアレですか、外国とのつきあいをアメリカに丸投げし、近所づきあいを嫁さんに丸投げし、それで男連中だけで寄って会社ごっこをしていたと、そういうことなんですか。友情・努力・勝利…まんまじゃないか。「いい年してマンガなんか読んで」とは、ひと昔前の大人のセリフであったが、マンガを読まない当時の大人は自身がマンガそのまんまのごっこに明け暮れていた、と。現実と仮想の区別がつかないと言われた例のアレは、今に始まった話ではないのかも知れない。…なびけこの山。