うわー、宗教研究の世界でこういうこと言ってる人がいるんだー(もう6年前!)、と、いたく感銘を受ける。みずからの不勉強をさらすにすぎないような気もするが、あんまり感動したので引用。池上良正『死者の救済史―供養と憑依の宗教学』(角川選書、2003年)166〜167ページより。
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 エクソシズムのような奇妙な風習はキリスト教世界では過去の遺物であって、近代化とともに消滅するだろうと考える人は多い。しかし、たとえばローマ・カトリックのお膝元であるイタリアでは、1990年代に入ってから、それまで30人足らずだった公式エクソシストが200人に急増したという報告もある(島村菜津『エクソシストとの対話』小学館、1999年)。
 悪霊の追い出しを信じる過激なクリスチャンのなかには、キリスト教徒以外の異教徒はすべてサタンに欺かれていると断言する人もいる。彼らにとっては、日本のイタコやユタなどとよばれる人々は、まさしく「悪霊に憑かれた者」である。要するに、人々や豚たちは悪霊に「憑かれる」。だが、聖霊に「憑かれる」ことはない。聖霊(神の御霊)はただ「(人の)上にとどまって」「満たし」「導く」のみである。
 しかし、当然のことながら、これらは聖書編纂者やキリスト教徒たちの明確な信念と意図のもとに選ばれた信仰の言葉である。つまり、すでに用語の選定段階において、信仰者の立場からの解釈が埋め込まれているのである。「憑く」もの、つまり憑依を引き起こすのは悪霊のみであって、「聖霊が憑く」ことはない、という立場である。
 われわれには、この「信仰」自体を批判することはできない。問題は、この「信仰」にもとづく二分法が、「学術研究」の分業をも固定化してきた点にある。従来の「宗教研究」では、ひとつの暗黙の分業体制が、みごとに確立してきた。つまり、「ついた」「神がかった」という表記に出会えば、それは「憑依」であり、シャーマニズム研究の対象であり、宗教人類学や宗教民俗学の守備範囲とされる。ところが、「高僧に仏の示現があった」「見仏の体験を得た」「預言者が幻を見た」などの表記であれば、それは「神秘体験」であって、仏教・キリスト教研究に入る、と見なされてしまうのである。

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