学内会議の翌日は長々電車で学外講演(拝聴する方です)、新今宮駅で南海からJRに乗り換え、いつもの芦原橋を通過して弁天町へ(早起きできたら交通博物館もと思ったんだが。むー)。弁天町から送られてきた地図を見て道を確認しながら歩くこと15分ほど。あった。ここ。ここもイコールのマークだったらよかったのに。

 で、学長代理のおつかいでこの企画。

 拝聴した報告は2本。「土地差別調査事件と部落の所在地を明らかにすること」「障害者の人権のパラダイム転換と人権教育の課題―近畿大学での取り組みにかかわって―」がそれ。1本目は(予期したとおり)なかなか圧巻。マンションのような集合住宅を建てて販売する際には顧客のニーズに合わせる必要がある。だから公共交通機関の駅からの利便性とか買い物や病院に行く便利さとか、その地域の環境条件を把握する必要がある。で、やっぱりそこが部落か部落に近い地域かということを調べる業者がかなりの割合になるらしい。おもしろかったのは、某所へアパート探しに来た客に不動産業者が「この地域は同和地区で不審者が出たりする。自分の友人もいるが住むのには…」という紹介をしたという一件。たとえば「ここは同和地区」といえば差別丸出しであるが、「ここは不審者がよく出る地域」と紹介するのはどうか。これと「ここは交通事故が多い地域」と紹介することとの間にはどのような距離を見ることができるか。もちろん、「ここは不審者の多い地域」と紹介するのはアウトだろう(だいたい「不審者」と特定できる人物たちを「不審者」と呼べるのか疑問である)。売り込む住宅の立地する地域を、どのような魅力を持つところとして紹介するか。売りごころあれば買いごころ、というか(逆かな)。
 結婚の際に相手の身元調査をするという人が回答者の3割にのぼるという大阪府だったか大阪市だったかの実施したアンケートの話は聞いたこともあり、吃驚した覚えがあったが、それに住民票(現居住地)や戸籍謄本(本籍)が使われているという例も多いそうだ。本人の知らないところで本人の住民票や戸籍謄本が発行され、それが主にそういう事前調査に使われるらしい。他の地域ではどうなんだろうか。やっぱり同じくらいの割合はあるんだろうか。
 で、そうした身元確認公文書の不正使用が司法書士とか弁護士とかの専門職によって行なわれていたことが重視され、自治体によっては「本人通知制度」というのを設けているらしい。本人以外の人間が本人の委任状(偽造を含む)を得て、あるいは弁護士や司法書士が職権に基づいて請求書(偽造を含む)をつくり、住民票や戸籍謄本などを取得したら窓口から本人に「あなたの身元証明公文書が第三者によって取得されました」と通知される制度(希望者は申請することになっているらしい。やってみよかな。さかのぼって何かあればおもしろい)。これは今日の企画の主催者が中心になって大阪府にそういうしくみを作ってもらいたいともちかけ、当時の知事の指示で雛形がつくられ、住民票や戸籍謄本を取り扱う府内の市町村に提案されたものだそうだ。これを初めて導入したのが大阪狭山市で、その後府内に広がり、今は大阪市を除いて府内すべての市町村が導入しているらしい。で、オチは当時の府知事が今の市長であったと。むー。
 せっかくこういう場に寄せていただいたことであるし、質問の時間もとっていただいていたので、かねてより思っていたことを講演者にお尋ねしてみた。部落差別はなくなった方がいいしなくすべきだというのはその通りと思うが、で、差別と一緒に部落もなくなった方がいいのか。個人的見解で構わないからと前置きしてお尋ねしてみた。で、カミングアウトしづらい社会であるうちはまずなくならないし、カミングアウトしやすくなったら、あるいはカミングアウトという心理的抵抗さえ感じられなくなる頃には、なくなるところもあるかもしれない。が、そこが部落だったという事実は残る。その事実がその頃にどう捉えられているかによって部落として残るところもあるだろう(以上藤吉の恣意的要約)とのお答え。納得しやすいお答えであった。ひとつおもしろかったのは、行政サイドからすると同和地区を指定して実施してきた同和行政が終了したのだから、その意味での同和地区はもう存在しない、という解釈だという点。行政らしいというかなんというか、まあ、その通りであろうなあ。さーべーつー、なぜするのー、ヤツらの勝手でしょー、とか歌いそうになる。
 2本目は障害者の「障害」性について。従来は障害を当人の負ったハンディキャップと見る「障害の個人モデル(医学モデル)」だったのが、最近は「社会の中に壁(バリア)があって、そのために不利を被っている人たちがいる」とする「障害の社会モデル」が有力となり、この1月に日本も批准した「障害者権利条約」はそのモデルに基づき障害者差別の解消をめざしていくというお話が中心。これはむかーしぼんやり考えたことがある「使い物になる/ならない」の話に引きつけて拝聴することができた。「身体に不自由があったら使いものにならない」という乱暴な見方がある。この見方はもちろん「使い物になる/ならないを決めるのは使う側である」という不遜にまみれている。が、それは(まあ現実はおいといて)「その職場は身体の不自由があるというだけでその人材を活用できないような貧弱な人材活用能力しか持たない」ということの裏返しでもある。もしかしたら立岩真也『自由の平等』あたりを読むとちゃんとした議論に触れられるかもしれない。まあ(腰がひけてる。ぷぷぷ)社会が悪いというのは言い方としてはその通りかもしれないし、「社会が悪い」を「社会の出来が悪い」くらいにすると納得感が高まるような気もするが、実際のところ、どうしたらそういう「社会の出来」を上げていけるかというのは、なかなか具体的イメージを描きにくいことですなあ。障害を負担と思っているうちはブレイクスルーにはなかなか恵まれないであろう。
 外が暗くなり始めた頃に終了。街なかは風が強くて寒い。そそくさ。
 へー、ユガミンとな。ほほう。
募集中だそうです。…いつの間にか取扱い停止になっている…7月中旬スタートで再開してます。
 あれから10年後までの予想
 今日の燃料棒@TEPCO。…308/1533
 今日のAQI
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