さらにつづき。人権や差別をテーマとする博物館が「闘いの歴史」の展示に傾くというのはある意味で当然のこと。問題(のひとつ)は、それを「負の=暗い、後ろ向きな、できれば忘れてしまいたい=歴史」とのみ捉え、子どもに見せるべき要素を一切持たないものと断じるかという点にある。…ちょっと違う…たしかに「ひどかった過去」ばかりを見せられたら引いてしまうのは子どもだけではない。が、「ひどかった過去」を扱った博物館なら(戦争に関わるものをはじめとして)国内外にたくさんありそうだ。で、そこでは、「展示された過去」と「展示を見ている自分」とを、見学者は比較的(←腰が引けてる)容易に切り離すことができるようになっているのではないか。つまり、そういう「過去」を扱う場合には見学者を「あの頃はひどかった。けど、いまはもう大丈夫」という方向か、あるいは「あの頃はひどかった。だから、決して忘れない=許さない=ぞ」という方向か、いずれかの感想に導くものが多いだろうと予想できる(ちと雑駁)。そういう導き方(展示の仕方)が妥当/適切かどうかは別にして、見学者は展示された時代と一定の距離を置きつつ今の自分の立ち位置を考える/選ぶことができると言ってよさそう。
 が、人権や差別の場合には、特にそこで扱われるものが現在進行形でもあるような場合には、ちょっと事情が違ってくる(と思う)。そこでの展示は、場合によっては「あの頃はひどかった」から歩を進めて「今もまだひどい」にまで射程を伸ばすかも知れない。そうやって、展示物自体は過去のものを使わざるを得ないとしても、そこで言及されるのが「現在」でもあるといった事態を想定できる。そして「今もひどい」となったら、それはまず「今もひどい目にあいつづけている」人々へとつながるであろうし、場合によっちゃあ見学者を「今もひどい目にあわせつづけている」自分自身を意識することへと導くかも知れない。…ここじゃないかなあ、嫌われたのは。「そういうのはナシにして自分は頑張ってここまできた。それを今さらこれ見よがしに並べてんじゃねーよ!」的な。
 つけ加えれば、差別や人権の展示にはどうしても「現状」への批判が含まれざるを得ないだろう。もちろん含まれていいと思う。が、もしもそれが「オマエハドッチノ立場ニ立ツノカ」的な詰問を含んだものだとすると、無理矢理でも行かなきゃいけない(ことになっている)学校と、別に無理矢理行かなきゃいけないわけではない(はずの)博物館とで場所は異なるものの、例の、理科や算数に対する国語のような、「学校外の知識を排除して学校の知識を正統とする」というような方向に進む可能性もないではない。…いずれにせよ「正しいこと」を展示するのはむずかしい。むずかしいから法律で強制的に(○×採点で有無をいわさず)教え込めるような科目としての「道徳」などという裏(のある)技も使われるんだろう。「私も困った人がいたら助けてあげようと思いました」というのは、そうした「空気」への子どもなりの適応でもあるかも知れない。
 ネガティブな過去をどのように現在の記述に織り込むかはなかなかむずかしい課題と言える。「みんな」がひどい目にあったり苦しかったりという時期が過ぎても、「前はあんなに大変だったが今はもうすっかり!」という人々ばかりではないだろうからだ。話をすっ飛ばしてしまえば、たとえば全国で刊行されている自治体史のなかから企業城下町と呼ばれるような地区のものを選りだして、それらが「過去」をどうさばいているかを整理してみるというのはおもしろい課題かも知れない。ネガティブな過去に口をつぐんでいるものもあるかも知れないが、かといってそうした過去を露悪的に取りあげるだけでは「次世代に受け渡す過去」としてはイマイチだと思える。むー。…しばらくまた転がしてみる。
 ちなみに、1か月ほど前のアルジャジーラにはこんな記事。

 ひゃあああ、なんと!…時代はまわる。それにしてもまわるの速すぎと感じるのはトシのせいでっか。
 あとかたづけをちゃんとしない人の「もっと大事なことを…」発言はあんまり尊重しません。
あとで読む
 チョコパイを食べたあとは奥歯がチョコでかぶせをしたような状態になる。これを放置してはイカンとかたく決意するおやつどき。
 官尊民卑にあたる英熟語はあるのか。
出た。誰か読んで簡単に説明して下さる方がないかな。あれこれ他人まかせ。
 こっ、…これはおそろしい道草の種。知れば気になる知らぬが仏。
 ちくちくちくちく…。
 そういうと、こんなんあるそうです。
 今日のAQI
 今日・明日のエアロゾル九州大学
 地には平和を。