ちょいとデスクワーク中断、長々と電車を乗り継いで再びJR芦原橋へ。前回より少し先まで歩きリバティおおさかのイベントへ。近くの歩道橋にかけられた案内バナー。

 前半1時間は自己紹介を兼ねたパネラーのスピーチ(雨宮さんが少し多め)。「まともないのちのつかいみち」という言葉はなかなか考えさせる。「生命にはそれが奉仕すべき究極的な目的はない」とは、基本的には不快な使い方を強いられていない命を維持できていてこその言い方と言っていいかもしれない。途中のトイレ休憩時にステージ方向を望む。ほぼ8割方が埋まっていた模様。「若者の生きがたさ」をテーマにしつつ、あんまり若者と言える人々が多いとも思えなかったのは気のせいか(いるにはいた)。

 後半もパネラーの一人ひとりが話題を振られて順に話すという形式。最後の30分くらいがフロアからの質問(休憩時に集められた)への返答に充てられたがなかなか1時間ではむずかしい。加えて、パネラーのお一人おひとりがピンでスピーチしてもらってもいいような人たちだった(と感じた)のでもったいない感も大きい。
 雨宮さんによると昨年(2012)日本で確認された餓死者は23人、必ずしも独居老人ばかりでなく、60代と40代の親子とか、あるいは3人家族とかでの餓死者もあるとのこと、弱者(障害者であれ老人であれ)の家族への押しつけが厳しくなっていることが指摘された。これは少し前に斎藤環さんが書いておられた「家族の壁」の話に通じるものがある。現代日本を競争社会とする見方は多いと思うが、これを家族ぐるみ一蓮托生の競争社会と見直す必要もあるだろう。いよいよ切羽詰まったらどこかに助けを求めたらいいのにとも言いうるが、餓死家族のなかには3回生活保護申請を窓口却下されたという例もあり、まず「助けを求める声が抑えられる」状況があるとしたうえで、それでも助けを求めることなく死んでいった人たちが多いということに関連し、まず「自分を、助けを求めるに値しない存在と見る自己認識」、「助けを求めたらかえって食い物にされたという被裏切り経験」があると指摘された。…晴れ晴れと「私はダマされた!」なんて声を上げられるのはまだまだ甘いなんて言っては、多分イカンのでしょうなあ。
 全体としてどうかというとちょっと消化不良のような気もするが、個別のスピーチはなかなか興味ぶかいものであった。雨宮さんのあの出で立ち(ゴスロリ=今日はちょっと違ってた=)は、セクハラ対策なんだそうだ。あの格好してるとセクハラが減るというのはおもしろい。
 企画の終了後、会場を出たところに路上販売のおっちゃん。街へ出ることが減ってとんとご無沙汰だったBIG ISSUEを久しぶりに購入。帰り道でビルの間から見えた春らしい空。

…と思うとそう見えるんじゃないかな。
 外から帰ってきたらうがいをする(習慣なので)。で、ガラガラして吐いた水がなんとなくヌメってるような気がするが、やっぱり気のせいにしておく。
 3月に入ってからやたらあれこれのお誘い(やお願い)メールが多い。春であることだなあ。
 タレントの管理はプロダクションの盛衰を左右する。締めつけるだけの管理がタレントを枯れさせることにも注意が必要。プロデューサーの手腕も大きいと言うべし。
 あー、こういうのを異文化体験というんでしょうなあ。なかなか。
 本学サイトにも案内をアップしました。どうぞご来場を(おもに近在向けアナウンス)。
 そういうと、こんなんあるそうです。
 地には平和を。