早起きして長々と電車を乗り継ぎ今日は京の街へ。京の西北は立命館大学で学生さんたちには余計なお世話的な(かもしれない)フォーラムに参加。バス停を降りると正門前にはそれ以外にもいろんなイベントが。
3名のシンポジストのお話はどれもおもしろくなかなか参考になった(どう使うか・使えるかは=毎度のことながら=別の話)。今回は壇上からのスピーチの合間あいまにフロアの人間が隣同士でしゃべる時間というのが5〜10分ほど設けられ、いろんな事情で参加しておられる方がおありということがわかる。学生の主体性を刺激する環境づくりというのは大事なことと感じられたが、途中、休憩中にフロアから質問紙を集めてシンポジストの話を深めるコーナーというのがあり、壇上からもフロアからも笑いをとっていたのが「学生の主体性を引き出すという点についてはその通りと思うが、だったら教職員の主体性を引き出す環境はどうやってつくったらいいのか(大意)」という質問。それに応じたシンポジスト氏の「どこでも傾いてきたらみなさん一生懸命になります」発言がこれまた笑いを誘う。むー、そういうものであるか、やっぱり。
藤吉が座った席のお隣は中国地方からおいでの私立理系の先生、もひとつお隣には関東から来られた私立総合系の先生、前の席にお座りの方は資格系の私立短大の先生で、「資格科目でぎっしりのカリキュラムだから、これ以上何か新しいことをやるのはむずかしい」とのこと。どこも事情はいろいろですなあ。
途中の休憩でちょいと屋外へ。構内のあちこちにこんな表示が出ている。やむことがどんどんやましくなっていく。まあ、やめたいやめたいとおもいながら煙草を吸うのは、勉強しなきゃ勉強しなきゃと思いながらうだうだするのと同じくらい健康に悪いのだろうけれども、こういうのは体罰とは言わないのだろうか。
興味深かったのはシンポジストのお一人が紹介された高知工科大学の事例。ここはセメスター制からさらに進んでクオータ制をとり、同じ科目が週に複数回あるという体制にしているとのこと(始めた当初文科省からは文句をつけられたそうだ)。理屈は、同時並行で履修する科目が増えればひとつの科目について1週間にかける自主学習の時間は減り、そのなかで教師が張り切って課題などを出しまくると学生の方が疲弊してしまう、というもの。これは説得力がある。たとえば学生さんたちが軽く週に10コマくらいは授業をとっている通年制、セメスター制の大学で、授業担当の全教員が学期の半ば(およそ6、7回目)で2週間の期限つきレポート課題を課したら学生はオーバーロードする可能性が高い、と。それゆえ、科目を絞ってそれを(短期間ではあれ)集中的に勉強するという点でクオータ制にはそれなりの意義があるとお見受けした。が、これで非常勤に来てくださる外部講師がどのくらいあるか、本学的にはそれがネックになろう。
そういうこともあってシンポジウムでは「科目は担当教員や学科・学部のものではなく、卒業証書を発給する大学のもの」という意識を持つことが強調された。個人個人の職人芸の集合体というだけでは対応しきれなくなっているということかも。ついでに、先進国のなかで(という言い方がどれだけ意味を持つかはさておき)大学の卒業証書や成績表がほとんど意味を持たない日本の現状は極めて珍しいとの指摘もなされた。企業は大学の、大学は高校の、高校は中学の、中学は小学校の成績意表や内申書をあんまり信用していないという相互不信の連鎖が日本の特徴であるそうだ。「どうせ適当な紙の上だけのこと」というのと、文書主義の文化があるというのと、日本における両方の共存(併存?)は前から気になってはいたが、「ホントだよ!」と言えば言うほどウソっぽいというのと何か関係があるか(勇み足)。
朝っぱらから夕方までうろうろもせず座りっぱ。さすがにくたびれたが北野天満宮そばの天下一品で少し回復。明日もあるし、あとはとっとと寝るべし。
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