しばらくぐったりしたのでゆるゆるまきなおし。…それにしても、晴れないな。
 まずは先月末からためこんでしまった新聞(毎日)一気読み。ほとんど見出し(しかも大きめの)を拾っているにすぎない。で、ネットでは聞いていたが、ホントに新聞に出ててびっくり。これからこういうやり方が増えていくのかなあ。

 これはまったくその通りと思う。めちゃ卑近な例に即していえば、大学での奨学生採用のしくみに問題があるのならそのしくみを改善すればいいだけの話で誰それが採用されてるのはフェアじゃないとかなんとか個人名をあげつらうのがそれこそフェアじゃないというのと同じじゃないかという印象を個人的には持つ。…まあ、犠牲者が出ないと手を打てないというのはよくありそうな話だが、犠牲者が出ないと動き出せないようなところには犠牲者が出て動いたところで「問題」の解決は覚束ないだろう。多分なんでそれが起こったかなんてこと、わかんないままだし、それが問題だということにもピンとこないままなんじゃないかな。…あれにもこれにもピンとこない自分にはね返ってくるこの言葉。むー。
 それはそれとして、たぶん1980年代の末あたりだったと思うが、何かのアピールか抗議のため大学構内に木材で櫓(高さ5mかもうちょい)を組み、その櫓の上から垂れ幕で声明を出したりしていた諸君がいて、「上手に建てるもんだなあ。当局が撤去に来たらどうするのかな」と感心していた。で、幸か不幸か当局が撤去に来ることはなくいつまで頑張るのかしらと思っていたところ、ある日やはり櫓の上からの垂れ幕で「飽きた。もうやめる」のアピールがどどーんと出ていてぶっ飛んだ覚えがある。当局との対峙の中で自分たちのやってることを後退させたり中断したりということはあるものだが、しかし「飽きた」と宣言してやめるのを見たのはあれが初めてのことで、すこぶる新鮮であった。何かを始めた諸君は、それを始めたら所期の目標を達成するか相手方に蹴散らされるかするまでやめないのが作法だと思い込んでいたのに気づき、飽きてやめるのもアリなんだなーと感心してたように思う。何をするにせよ学生にとって大学は数年経ったら「ごちそうさま。さいならー」と去っていく場である/あらまほしという認識は大事かも(それを言えばこの世がまんまそうなんだろうが)。
 何かをするために集まってそれに向けて一緒に取り組みを進め、その積み重ねの上に次のステップが見えてきたら広く主張を訴えるために新聞広告も含めた広報手段を使うというのではなく、それまで何の関係ももたない者同士が呼びかけ合い、ある主張をするためだけに資金を持ち寄って広報活動を行ない、ひとまずそれでお開きにするという瞬間的この指とまれ方式は、町内会だの労働組合だのといったしがらみ締めあげ方式とはまた異なる動き方のモデルになるかも知れないと感じさせる。
 新聞広告でこれだけぐるぐるするのは珍しい。さっぱりしたところで机仕事に戻る(どうせおんなじパソの前だが)。