役所で起きたミスや不正が明らかになりにくいのはなぜかというと、もちろん自分たちの過ちを明らかにしたり認めたりしたくない気持ちは役人のみならず誰にだってあるというのはおいといて、特に人的つながりの強いところの場合には「組織の過誤を暴く」が「職場の(世話になった・これからも世話になる)先輩の過誤を暴く」につながってしまい、そこで強力な心理的ブレーキがかかるからだと聞いたことがある。人材の流動性なんてのが流行り言葉になっている今はあまり表だって聞かれることが少なくなっているが、それでもやはり「○○一家」的な観念が根強く残っているところは、あちこちにあるに違いない。その一方で、じゃあそういう世界の物事は連続性、継続性ばかりで成り立っているのかというと、たとえば禅譲などによらず選挙などの戦いで前任者の地位を襲ったトップは、それを続けることが住民にとってプラスかマイナスかということ以前に前任トップの「手柄」に花を添えるような仕事はかえって取りやめにする場合もあるという。このあたりに、継続性と新規性のバランスのとりどころがありそうな気がするが、まだそんな気がするだけ。…中略…以前、薬害に関係する厚生省(現厚生労働省)の会議録、業務記録が、ないないと言われていたにもかかわらず当時の大臣の強力なリーダーシップのもとで見つかったという出来事が話題になったが、ほんの10年そこそこ経つか経たないかの業務記録を見つけ(させ)たということを大臣の手柄として喜ぶような文化をこそ問題にしないといけないんだろうと思う。
 それはそれとして、今日は九度山こんなイベントが開かれます。ご用とお急ぎのない向きはぜひお運びを。