ひきつづき古い雑誌を読み中。ちょっと前にも書いたことだが、最初から最後まで全部読むをやめたらずいぶん処理速度が上がった(処理しない=タイトルしか読まない=ページが増えただけだが)。で、AERAの2008年9月22日号で、AERA創刊20周年記念 特別広告企画として当時の編集長氏による対談記事が始まっている(どのくらいつづくのか、まだ見ていない。「ひつまぶし」はこの春に終わってしまったが)。1回目の対談相手は当時の東芝の社長氏。以下、恣意的に抜粋する(……はそのパートの発言フルの紹介でないことを表します)。

……前略……
編集長:……早速ですが、2005年の6月に社長に就任されて、ただちにウェスティングハウス・エレクトロニクス社を買収されましたね。大変な判断と決断が必要だったと思いますが、トップとしての決断は実際のところはいかがだったのでしょう。
……中略……
社長:……東芝にとって原子力事業は大黒柱といってもよい事業なんですけど、今のまま進んでいっても、2015年くらいまでは、生き残ることができそうなんです。ところが、2050年にどうなっているかと考えると、今のままでは原子力事業から撤退するしかない。そういう事態が予測できたわけです。
編集長:2050年なんて、そんな先のことまで考えられるんですか。
社長:ええ。原子力という事業の性格を考えると、それくらい長いスパンで見ておかないといけないんですよ。それで撤退となったら、社会的責任が果たせなくなるわけでしょう。そんなことは、東芝の企業理念に照らして許されないですよ。
……中略……
社長:2050年になっても社員が誇りを持って仕事をする会社であり続けるためには、ウェスティングハウスを買収するしかない、という判断をしたわけです。
……中略……
編集長:それにしても40年先のことまで考えるなんて、週刊誌の世界ではありえないですよ。想像を超える世界ですね。
……後略……

 メーカーというのはものをつくることが仕事なわけだから、売れる物をつくる一方、売れる分野を開拓するのが大事だということはわかる。その意味でこの社長氏のビジョンは、ものづくりの会社のトップの判断としてそれなりに妥当なんだろうと思う。それ以上のことを営利企業であるメーカーに求めるのは酷なことだ。
 重要なのは、つくられたものが使われなくなった時その使われなくなったもの、あるいは、つくられたものが使われる中で付随的かつ不可避に生み出される排出物、それらの処理に責任をもつのは誰か、といったことを誰が責任をもって決めているのかということだ。民間企業が作ったものなんだから、それによって生じたトラブルは当該民間企業が負うべきだ、と、たとえばPL法のような論理を原子力産業(原子炉)に対して適用してしまっていいのか。こうしたことを、別のメジャー製造業について考察すると宇沢弘文『自動車の社会的費用』のようなものになるだろう。
 最近よく使われるようになった「国策捜査」という言葉は、国家というものが局所的な利害によって動くものだということをあらためて認識させた点で意義あるものだったと思うが、そこからあらためて、原子力産業が「国」策であるという意義が考え直されてよい。
 それはそれとして東芝は、ここで話題になっている買収に関わると思われるプレスリリースをウェブ上にちゃんと保存している。半年も経たないうちに自社記事をウェブ上から削除するような報道産業の多い日本のなかで、プレスリリース程度のものとはいえちゃんと残している(検索もできるようにしてある)というのは、これはなかなか貴重な態度と言っていいように思う(量が違うか)。…歴史と伝統もいいが、やっぱり記録と証拠は大事。
…丈夫と鈍いは紙一重