2月にインドでやるセッション、7本の報告のアブストラクトをアップしました。しまっていこうといってる舌の根も乾かぬうちの拡散したアーカイブ論議ですが、自分がどこに焦点を当てるかということと、それがアーカイブ論議のどのへんに位置するものであるかということと、両にらみの作業ができるという点ではなかなか刺激的かも。PDFで載せています。よろしければダウンロードの上ご一読を→こちら
…なんで英語を学ぶのかというと、いつかはアメリカ人になりたいとかイギリス人になりたいとか、そういうことではない。そういう人がいても別に構わないと思うが藤吉はそうではない(古代インド人になりたいと思ってサンスクリット語を学ぶ人だってそんなにいないだろう)。たしかに外国語を学ぶことによってそれが使われている文化や生活について理解が広がるという部分は大きい。が、どこまでやってもその生活感覚や皮膚感覚にまで達することはむずかしいだろう。スラングも交えた楽屋裏での会話までできるようにというのは、なかなか目標にはなりにくい。が、あらたまった場で、それなりに準備をしたうえで何かのテーマについて知識や意見の交換をするというあたりまではやれそうだ。そして、その交換相手は英語ネイティブばかりではない。ノルウェイ人ともスウェーデン人とも、またインド人ともメールのやりとりをするときには英語を使う。英語を使えるようにすることは、諸外国の人々とのコミュニケーションを、ご当地の母語を学ぶという手間を省略して可能にする(インド人はもしかしたらネイティブかも知れない)。
 どうせ底の底までは理解できないとばかりに投げやりになるのではなく、理解できない部分よりも理解できる部分を大事にして、その部分では一定の合意を得られるよう努める、というのが正攻法だろう。…もっとも、同じ日本語を話していたって通じない相手には通じないものだ。通じないことをそれほど過大に悲観する必要もないように思える。
 よくも悪くもデファクトスタンダードの言語として、英語には確かに学ぶ価値がある。ただしその場合、こちらに聞きたいことがあるだけでなく、聞かせたいこともないことには会話にならないだろう。商談などをしに行くわけではなく話すことそのものを目的とする以上、相手から受けとる分こちらからも提供できるような「何か」を用意しておかなければ面目ない。それが結果として、「こっちはこうだけど、そっちはどう?」というような、あらためて相手から話を聞き出すようなことになる場合はあるとしても、まずはこちらから何かを提供すること、あわよくば自分の提供することが相手にとって何らかの刺激になるようなものとなるようにすること。…会話能力の上達は微々たるものだが、心臓だけはどんどん毛深くなっていく。ぷぷぷ。
 そろそろ準備せなと思い、あらためてネット検索。厚生労働省検疫所というところのサイトでインドのページを見たら、注意しなきゃいけないものには、マラリアデング熱、食中毒、腸チフスコレラA型肝炎B型肝炎、ポリオ、狂犬病破傷風…いっぱい挙がっている。こんなに予防注射したら顔が腫れるどころの騒ぎじゃない。かえって虚弱児のあたしはカラダがおかしくなってしまうとビビって大阪の出先機関に電話して尋ねてみたら、1週間程度の、しかも都市部での滞在であれば破傷風A型肝炎を最低でもやっておけばいいのではないかとのアドバイスを受ける。現地では生ものは食べない(食べません)、煮沸後の水しか口に入れない(アタリマエ)、ホテルに戻ったら石けんで手を丁寧に洗う(心がけます)、犬に噛まれないよう気をつける(どうせえっちゅうねん)などの諸注意を言い渡される。ひとまず注射漬けにはならずにすみそう。ひと安心。