山上9℃、寒々したうすぐもり。週末にかけてかなり冷え込むという予報だが、その予報をさらに先取りするかのような空気。
 寄付依頼に対する違和感をちょいと反芻していて気がついたのは「首尾よく頂戴できればこれ幸い、いくらでもよろしくねー」というスタンスの希薄なところへの違和感じゃないかということだった。一口の金額を決めることには「最低でもこのくらいはよろしく!」という意味があるように思うが、この感覚に対する違和感があるということだろう。これ、もうちょっと考えてみたい。
 …てなことを頭の中で転がしていたら、前回の雑記を読んでくれた知人からメールが。その人の勤める宗教系の大学でもちょいと前に、何かの記念とかで大きな建物を新築したんだそうな。ちょうどその前後にあった話として紹介メールを頂いた。当時、アルバイトから専任の教員に採用してもらえそうな気配だった内部進学(というかその宗教に連なる親を持つ関係)の若手の研究者は、あるときこそっと学内のエライ人からこう尋ねられたそうだ。「採用されたら、新任1年目の給料は、建物新築のための費用として寄付してくれるかな?」と。その若手さんが即座に「いいとも!」と答えたかどうかまでは聞けなかったそうだが、そうかあ、信仰共同体(に)は無体なことをする(ところもある)なあとあらためて感服(←記述中の()は藤吉のこの話題に対する腰の引け具合を表現しています)。
 こういうのを「無体」と感じてしまうことの背景には、おそらく「提供された労働・サービスに対する適正な報酬」という資本主義的な(と言っていいだろう)感覚が染みついているということがあるに違いない。一般にも時々言及される「エライお坊さんはお経ひとつあげて時給○十万円、○百万円」という視点には、この感覚と通底するものがある。たしかにお経をあげたその場で受けとる金銭の場合そういう感覚を呼び起こしやすいが、多分それには異なる意味が含まれていると思う。そもそもお経をあげてもらって「ありがたい」と感じる人々がいて、そういう人々はお経をあげてくれる人に、それなりの立派な暮らしをしていてほしいと思っていて、そういうのコミでの「お布施」というやつなんじゃないか。お坊さんへの金品の譲渡というのは、だから、「お坊さんとしてやってくれたこと(お経あげだの戒名つけだの)」という労働・サービスへの報酬なのではなく、そういうことをやってくれたときにこちらが「この方にこういうことをして頂けてありがたい」と思える程度の人でいてもらうために、「ちゃんとお坊さんらしくしとくれやっしゃ!」という期待をこめてのものであろうと。ここが「正当な労働に正当な報酬」をつい口にしてしまう給与所得者とのちがいであろうと感じる。そして「らしさ」というのが子どもの頃からの暮らしによって培われる部分を大きくもつものであるとすれば(梨園角界――東大・京大もそうってか?――をひくまでもなく)宗教界もそういった領域として今後なお人々に求められつづけるのではないか(というか、そういうものを求める人はきっとそうそう減りはしないのではないか)と思える。まあ、でも、うちわのことはわかんないな。外部にあるものとしては、健全なかたちでの協力体制と批判精神との共存を望むばかりなりけり。
 11月中にはと思っていてまだ仕上がっていない学科図書購入リストの作成作業を継続。