山上23℃、雲は多いがよい天気。空が青い。風雨に洗われたためか樹木の緑の鮮やかさが濃い。
 大学の敷地の隣はフェンス一枚隔てて高野山小学校の敷地がある。すでに運動会の練習が始まっているようでトラメガによる「○○く〜ん、ちゃんとして下さいよ〜」という先生の声が聞こえてくる。これからしばらく、にぎやかな秋の日々。…今日は入場行進の練習をしているようだ。テーマ曲は「双頭の鷲の旗のもとに」。なつかしいねー。
 たとえば学級委員はクラスの代表だったり(藤吉の行ってた高校では「室長」という呼び方だった。いま考えるとヘンな名前)、生徒会長が生徒の代表だったりの延長で「政治家は国民の代表」という見方(常識)が定着し、その一方で「あんなんをみんなの代表なんて、少なくとも自分は認めてない。やりたいヤツが勝手にやってるだけだ」なんていうスタンスが許容される、という乱暴な図式化が可能なように思う。で、やっぱり「政治家はみんなの代表(いまミスタイプして「政治家はみんなの代用」としてしまった。意味深)」というのがおかしい。「政治家は『自分たちの代表をたてて国政(あるいは地方)レベルで何かを実現しようという行動の伴った意欲を持つ人々』の代表」というくらいの位置づけの方が妥当なんじゃないか。「代表をたてる」ということには手間も費用もかかる。これを考えれば「かけられるだけの人手と資金を持つ財界」が代表をたてるグループとして大きな比重を占めるのは当座は自然なことであろうし、そうすれば「政治家は財界のいいなり」なんてのが言いがかりにすぎない(「自分の当選のために力を尽くしてくれた人たちのために働く、これのどこがおかしい?」)こともよくわかる。
 身分制の江戸時代から「四民平等」の明治、「自由と民主主義」の昭和後半を経て、ようやく「政治家はみんなの代表」という「常識≒タテマエ」の欺瞞性が、露悪趣味ではないかたちで消失しつつある、と現状を見ることは可能なんじゃないか。「あなた方みんなの代表は、私のたてたい代表とは違う」という発言が、妙な意気ごみにまとわれることなく言えるようになる時代への第一歩だ、彼の「自民党をぶっ壊す」とはそういうことだ、と、いちおう選挙前にまとめておきたい。「代表をたて(るという手間をかけ)て自分(たち)の意思を実現する」という文化は、この国でできるのならこれからできていくんではなかろうか、と思います。
 「代表を選ぶ」というシチ面倒くさい作業をサボっておいて、そのくせ自分もいい思いをしようなんて心根が「政治家はみんなの代表」という(「きっと黄門さまが現れて下さる」という時代劇的気分と「みんなそれぞれ価値ある個人、お互いを尊重しあおう」という戦後民主主義的気分とがないまぜになった)すこぶる日本的なスローガンに集約されているといいたいわけです。
 いつもお世話になっているtenki.jpのサイト、今回の台風を前にデザインがリニューアルされていた。のはいいが、衛星画像や天気図のアニメーションがなくなってしまったようでさびしい。台風の時など(不謹慎ながら)気象衛星からの赤外画像アニメーションをみながら「おー、来ちょる来ちょる!」なんてやってたものだが。あんまりアクセスがなかったのか、それとも負荷が大きすぎたのだろうか。なんとも残念。…と思いつつ今見直してみたらありました。画像もでかくなってるし、嬉しい。前言撤回でござる。