以下、去る10月15日に発行された高野山真言宗宗務所発行の「宗報」に書いた一文。媒体によって書き分けをするわたし。
高野山大学副学長 就任のごあいさつ 藤吉 圭二(共通教育センター准教授)
この四月より期せずして副学長(教務担当)職を担当することになりました。いうまでもなくこの職は学長の指示のもと本学の教務関連業務一般を掌握するもので、大学として「どのような学生を社会に送り出すか」という課題に対してカリキュラム面で、つまり「どのようなことを教えて学生を社会に送り出すか」、「社会に出る前の学生に、どのようなことを身につけてもらうか」という面で責任を負う職務です。
かねてより学生の学力低下や大学改革の必要性が話題になります。そうした時代の流れを意識することはもちろん重要ですが、それにばかり気をとられていると、そもそも何のために学生を集め教育活動を展開しているのかということが忘れられがちになります。一方で大学としての教育理念を堅持しつつ、他方で変動する時代の要請を見すえそれに対応していくことが求められます。一般に、大学が教育の方向性を定めて学生を迎え入れ一定の教育を施して社会へと送り出すまでに最低でも四年、その卒業生が社会に出て臆せず力を発揮できるようになるまでには一〇年ではきかない年月が必要となるでしょう。そういう気の長い目標を掲げ、腰をすえて学生諸君に向き合うのが大学の仕事だということを常に念頭に置いて目の前の業務に取り組んでいきたいと考えています。
高野山大学は、受験産業的には低偏差値校と位置づけられています。有り体にいって学力的に思わしくなくても入れる大学ということですが、にもかかわらず、意欲についても学力についても申し分のない学生が毎年少なからず入ってくれているという点は本学ならではと感じます。加えておもしろいのは、そういう学力面だけでなく性格的にもさまざまな学生諸君がひとつに集まって、授業の準備や復習などでお互いに教えあったりしている場面が見られることで、こういうところに本学学生の美点を感じることができます。学力というとどうしても個人の努力という目で見てしまいがちですが、こういう学生の自主的な助け合い、学び合いの場を支えていくことも大学にとって重要なことと思われます。
密教教育については、密教学領域、人文学領域、スピリチュアルケア領域がそれぞれ展開されているところです。教務担当副学長としては、学生諸君にそれを最大限に学んでもらえるよう意を注いでいきたいと思います。関係各位のお力添えをお願い申し上げます。
…なーる。いろいろありますなあ。
…呪詛と批判の綱渡り。
うひゃー、こっちもあったか! 心配性なフリをして単にノー天気であったわたし。
しばし逃避していたらこんなことを言ってる人もいる。まさかそこまでと簡単に否定できない自分を認める。1年単位か10年単位か、自分もその一部となりつつ九相図を見ることになるか。…自分の生きてる間にやばいかもと思っている40代はどのくらいいるかな。まあ、寿命によりけりかな。
ふふふ、いいね!…これが望ましい自己イメージなのか。それはそれで、むー。
台風なう 台湾の天気なう。